映画「くじらびと」誕生秘話
くじらびとに魅せられた男 石川梵(ぼん)
くじらびとに魅せられ、30年間通い続けている男がいる。
映画監督石川梵。秘境写真家として鳴らしていた1991年、旅の途中で聞いた噂話を頼りにラマレラ村を訪れたのがきっかけだ。まだ鯨漁の村、ラマレラのことが日本で知られてなかった時代のことだ。
「凄い題材を見つけた!」 モリ一本で鯨に挑むその姿を想像しただけで石川は興奮した。「よし、凄い写真集を作るぞ」腰を据えて撮影することにした。
しかし、そこから石川の苦難が始まった。
1991年当時の石川
毎朝、夜明けとともに海に出る。赤道直下の猛烈な日差しに晒されながら8時間以上粘る。海上の気温は40度を超え、日差しを遮るものもない。
忍耐が強いられる過酷な漁だが、いっこうに鯨は出ない。
そんな撮影の日々が続く。
1年目はとうとう出ず、2年目は覚悟を決めて3ヶ月滞在した。しかし鯨はまたしても出ない。なんとこの年は石川が帰った翌日、鯨が出るという不運にも見舞われた。
鯨を待つ日々が4年目にさしかかるとこんな噂が立ち始めた。
「ボンがいると鯨がでない」
「さすがに焦りました。このままだと村にいられなくなる」と石川。
幸運?なことにこの年、ついに鯨漁に遭遇、執念の一枚を撮影した。
ポスター用に加工される前のオリジナル写真 1994年撮影
しかしそのとき、石川は、衝撃的な光景を目にした。
鯨がウォーと悲痛な断末魔の叫び声を上げたのだ。
「これまで海の上の人間の物語を撮ってきた。しかし、海の下のもうひとつの物語があることに気づいた」
石川は海の下のもうひとつの物語、鯨の気持ちを撮ることを決心。
過酷な取材から解放されたと思ったのも、つかの間、あらたな取材が始まった。
そして3年後、石川は狂気のような撮影を敢行する。
「死にかけた鯨の背中にとりつき、鯨の目を撮ろうとした」
しかし、その直後、鯨は最後の力を振り絞って海中に潜り始めた。
鯨とともに海中へ潜る石川。モリ綱が絡む危険があるので、石川は空気タンクを背負っていない。
「気が遠くなりながら、夢中でシャッターだけは切った」
決死の撮影は成功した。日本に帰り、現像されたコダクロームには、怒りに燃えた断末魔の鯨の目がしっかりと刻み込まれていた。
それから20年を経て、石川は再び、鯨漁の映画製作に挑んだ。
「ラマレラの民のアイデンティティともいえる鯨漁。さまざまな圧力や、グローバリゼーションの進む中、生存捕鯨そのものの存続が危ぶまれるようになってきた。映画監督となった今、後世に伝えるためにも貴重な映像記録を残したい」
2017年から撮影を開始、その模様はクレイジージャーニーの密着取材などで放映され大きな話題となる。
しかし、本格的に撮影を始めるとまたしても鯨が出ない。ついに鯨漁撮影に成功したのは、撮影を始めてから3年目、ロケ最終日の前日のことだった….。
石川梵とはどんな男なのか?
1960年生、大分県出身。17才で日本将棋連盟奨励会に入会。将棋棋士の道を歩もうとする。
しかし19才のときに新宿でリバイバル上映された「2001年宇宙の旅」に衝撃を受け、映画監督の道を目指すと決心。
しかし、石川が進んだのは、映画ではなく写真家としての道だった。
「当時、映画監督は映画の世界からしか映画を観ていないと批判されていた。ベトナム戦争の映画を撮るのに、ベトナム戦争の取材をするのではなく、他のベトナム戦争の映画を観て作っていた。実体験がないので、底が浅い」
「映画を撮る前にまずさまざまなことを体験し、そこから映画としてアウトプットしたい」
石川は奨励会を辞める時、関根一門から渡された餞別で一眼レフを購入。
写真学校で技術を学び、世界を旅し、フランスのAFP通信のカメラマンとしてアフガン紛争の従軍取材を敢行する。
しかし従軍取材で地雷原を歩いているとき、石川は衝撃の体験をしたという
「私の前を、10代の少年が地雷避けになり歩いてくれた」
「当時、ソ連軍に迫害されていたアフガニンスタンの実態を世界に知らせてほしい一心で、アフガンの人々はジャーナリストに非常に友好的だった。とはいえ身を艇して私の命を守ろうとするその心根に深く感動した。なぜ、そんなことができるのか? そして思ったのは彼らのことを深く知るためにはイスラム教をもっと知らなければならない。ただ、そのためにはそれを知る物差しがなければならない」その物差しを手に入れるため、石川は日本に帰り、伊勢神宮の撮影を始める。「仏教渡来以前の日本の神道から学び直したいと思った。自然との共生を重んじるその思想は世界の辺境を旅した自分にとってとても共感できた」
それは、後に写真集「伊勢神宮、遷宮とその秘儀」(朝日新聞社)などとして結実する。
日本の信仰について学び直した石川は、1991年にAFPを辞し、フリーランスとして独立、「大自然と人間との共生」をテーマに世界の「秘境」を訪れ、そのフォトエッセイをライフ、ナショナルジオグラフィックなど内外の雑誌で発表し、アジア、アフリカ、南米など世界60カ国以上で取材を行う。またヒマラヤを皮切りに世界各地で空撮を行い、「地球のダイナミズム」を空から表現。「大地と人間」という壮大なテーマに挑む、「惑星の肖像」とタイトルされた写真展を各地で開催された。
東日本大震災
「大地と人間」をテーマに撮影を続ける石川の活動に大きな影響を与えたのが東日本大震災だった。震災の翌日にフリーランスとして唯一被災地を空撮。
その写真群はニュースカメラマンには撮れない写真世界と話題になり、また福島第一原発ベントの写真は大スクープとして新聞の一面に取り上げられた。
2015年には、ネパール大地震直後に日本の救援隊とともに現地に一番乗り、ジャーナリストして最初に震源地の村、ラプラックを取材。
全滅した村を救うため、映画制作を決意。約1年かけて「世界でいちばん美しい村」を監督、撮影。映画は個人制作にも関わらず東劇で上映され、全国公開、都内だけでも1年間のロングヒットとなった。
映画を通したラプラック村への支援は現在も続いている。
世界のさまざまなことを経験してから映画を撮るという石川の計画は、紆余曲折を経ながら、36年をかけて結実。「くじらびと」に至っている。
未来のくじらびと、エーメン少年と(2019年)